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河口氏の大般若経
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大般若経とは お釈迦様の説いた600巻の経典 八王子市上川町の円福寺(えんぷくじ)に、大般若経(だいはんにゃきょう)というお経の一部が残されています。般若とは昔のインド語で知恵という意味なのだそうです。お釈迦様は、清らかな心で生きていくための知恵を600項目あげて、それぞれを一巻のお経の本にまとめました。だから全部で600巻になるのです。600巻のお経の本といえば、大変な量ですから、これを全部そろえたものを大般若経と呼んだのです。このお経は読むだけで何日もかかるので、読経する場合、通常は転読といって、初巻と最終巻だけを読み、他の598冊はパラパラとめくるだけです。そのため、折りたたみのようになっていますが、河口氏の大般若経は、そのような目的ではなく、確りとした装丁になっています。 書写して後世に残した河口兵庫助 この600冊のお経の本を全部書写して、川口の人々の幸せを願った人がいました。その人の名前を河口兵庫助幸季(かわぐちひょうごのすけゆきすえ)といいます。生まれたのは1367年で、今(2004年)から数えると637年も前のことです。お経を書き始めたのは55歳の時からで、約7年間かけて600冊全部を書き終わったのです。この7年間、河口兵庫助は鳥栖寺(とりのすでら)というお寺に住みついて、この大きな仕事にうちこみました。鳥栖寺の什物(宝物)として書写したのです。パラパラめくれるようになっていないので、転読には用いることができません。あくまで、保存が目的でした。転読するための書写や、一般の人たちが書写する際の原本となるようなものでした。この大般若経全巻を通読するという大イベントを川越の豪族、河越氏が行ったという記録があり、その際、全巻が揃わず、河口氏の大般若経が借り出されたようですが、遂に川口には戻されなかったようです。これが浦和の氷川女体神社にある河口氏の大般若経のいわれではないかと思います 書写した鳥栖寺はどこに? 鳥栖寺がどこにあったか、はっきりしませんが、そのお経が寺宝(じほう=お寺の宝物)として残っていたのは、最初に書いた上川町の円福寺です。そのために、円福寺が昔は鳥栖寺と呼ばれていたのではないかという人もいますが、はっきりした証拠はありません。河口兵庫助は、写したお経の最後に、何年に書いたか、書き残しています。それを奥書(おくがき)といいます。奥書によると、鳥栖寺は武州多西郡k河口にあったことが記されています。円福寺がこの記述に当てはまりますが、他に鳥栖観音堂が川口町にあり、伝承では円福寺の観音堂が災禍により移転したとされています。 残巻は僅か 新編武蔵風土記稿(約200年前の書物)にはこんな風に記されています。 ”円福寺には寺宝として大般若経が100巻ほど残っている。古いお経の本で、應永という年号で呼ばれていた頃(1394~1429年)、この地方を治めていた河口兵庫助幸季という人の寄付したもので、厚い表紙をつけ、本の背の部分はきちんと糊付けしてある。(このような装丁を特に施風様の粘帖という)これは特別にていねいなな綴じ方である。各巻の最後には奥書がある。この大般若経は、つい最近まで全部残っていたが、寺の建物が破損して、雨漏りしたため、汚れてしまったものが多く、腐食してしまったものは寺の上にある熊野神社の境内に埋めてしまったという。とて残念なことである。残っているものも、多くは雨の染みた跡がある。” では200年後の現状はどうでしょうか 私の調査ではこのようになっています。 ”実際に残されているのを見ると、雨水が染みて変色したところや、紙食い虫に食われた跡が多く残っている。また雨が染みて貼りつき、コチコチに固まって、開くことの出来ないものも円福寺にはまだ残っている。 。残ったもののうち、かなりの部分が、戦後の紙不足の折に、蚕座紙や製茶の際に使われたりして、現在残っているのは次の四十九巻です。 八王子市郷土資料館(円福寺蔵) 39巻 大幡宝生寺 2巻 あきる野市石川家 6巻 さいたま市歴史博物館(氷川女体神社蔵)2巻 合計 49巻 これ以外に、円福寺の書庫には、雨に濡れて固く張付き、開巻できないものが相当数残されています。” 奥書の一部 奥書によって、河口兵庫助以外に宝生寺の開山僧明鎫などの記したものが若干あることも知られています。また河口兵庫助は仏門に帰依して兵庫助入道与阿と名乗ったことも知られています。 巻69 應永丗二年五月日 於武州多西郡河口鳥栖寺常住也 大願主 河口兵庫助幸季敬白 巻426 正長三年六月一日 於武州多西郡河口鳥栖寺常住也 大願主 兵庫助入道與阿 為現世安穏後世善処 抽一心清浄誠欲 蒙十六善神養護者也 後は省略 |
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熊野山円福寺 | 鳥栖観音堂 | 鳥栖山長福寺 | |
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