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動員学徒と川口川
川口川の清き流れ

川口川の清き流れ”は遠い過去のものとなってしまった。しかし、この川に青春を浸した青年群像があった。
 

ここに一冊の小冊子がある。表題は{川口川のほとりにて」副題は「八王子学徒動員記(昭和二十年)ー相模海軍工廠ーとある。当時、八王子市の郊外にあった寒村、南多摩郡川口村に動員された神奈川県小田原市の相洋中学生徒たちの回顧録である。動員学徒の川村興史郎さんなどが中心になって平成四年にまとめた。この事実は当の川口でも殆ど知られていない。彼らの苦しみを見つめ、疲れた肉体と心を癒したのは川口川のみであった。「あとがき」に記された次の一文が少年達と川口川との触れ合いを物語っている
 ”文集の表題を「川口川のほとりにて」とした。清く流れる川口川は少年達にとって母にも似た存在であった。水浴し、汗を流し、のどの渇きをいやした。洗濯もし、食器も洗った。時にはなぐられた頬を冷やし、望郷の涙を見られまいと頭から水をかぶったこともある。平成四年の夏、この地を訪問した時、まっさきに歩を進めたのはこの川辺リであり、川の辺りの幕舎の跡であった。川はいつも少年達をかばい、見守っていてくれた。

               川口の自然を守る会 最終更新 2006−05−14


「川口川のほとりにて」相洋中学学徒動員記編集委員会編、平成五年五月二十二日発行より転載

動員寸描 
川田定雄


 戦後四十七年が過ぎた。

 終戦を迎えた八王子の山村での学徒動員のあの日、あの時の記憶は薄れ忘却へと向かっている。
時も折、当時の級友数人で現地を訪ねた。(平成四年八月九日)
十四歳の未熟な青春が、時に強烈に、時に淡く浮かび、しばし、感傷・悔恨・感動の暑い日だった。
この想いは、他人にとって、たいした意義は無いだろうが、このまま忘れ去るには忍びない当時のことがらを書きとどめたいと考えたのは、あの日と同じ猛暑のせいだったからか。
記憶ちがいはあるかも知れないが、思いつくままに追憶して見た。

 1 八王子へ

昭和二十年六月初旬(?)、三年三組と伊東線グループ約六十人が、学徒動員中の寒川の相模海軍工廠からこの地(八王子市上川町=当時川口村)に移動した。
大学・中学の動員生と軍人。軍属が多く居住していた。周辺に小山の連なる山あいの村落である。
緑濃く、農家の点在する静かなたたずまいであった。
十人ほどのテントはカジカの棲む清流・川口川のほとりの湿った杉林の中にいくつか在った。
時は、梅雨であった。
テント、毛布、リュックにカビがはびこった。
梅雨寒の夜は毛布が寒かった。
やがて梅雨が明けるとヤブ蚊が襲ってきた。シラミも発生し、下痢する者も多く、体力・気力とも低下し、作業に熱が入らなかった。

 2 作業はつらかった。

細い山道を、クワやスコップを握って拡張し、山あいに点々と小工場を建設していった。
この工場で弾丸を生産するためである。
工場用地の整地は、モッコでの砂運び、スコップでの地ならしで、単調な重労働であった。
兵隊の指揮下、毎日、今日の工程を示され、それに従った。
近在の徴用されたと思われる年配者も何人か共に働いた。
整地が進むと建築用材の運搬が始まった。
相模海軍工廠は相模湾に接し、上陸されれば一たまりもないため、この地に移設を計画したのであろう。
相模線を利用し、解体材が五日市線の五日市駅に降ろされた。
これをトラックに積み、秋川渓谷に沿う砂利道をピストン運搬した。
楽しみなことがあった。
解体材に書かれた、ハクボクでのメッセージを発見することである。
「米英撃滅」「大和魂」などの中に「相中健児ガンバレ」と。
はるかレールの先の前動員地寒川で積み込みに働く級友の顔を思い浮かべ、同窓のつながりを一しきり感じたものである。もう一つ楽しみなことがあった。
途中、道におおいかぶさる大きなプラムの木があった。
走るトラックの上から棒でたたき落とし、その甘ずっぱい果実を口にすることがある。
ある日、戦闘帽が枝にふれ飛んでしまった。
トラックはしばらくして止まった。
後方を見ると同年輩の少女が帽子を持って駆けてきた。
汗ばんだ顔と、はじらいの目で、黙って渡してくれた。
その後、いつも注意して通行したが、二度と少女を見ることはなかった。
十四歳の暑い夏の日の甘ずっぱい想い出である。

 3 戦局

暑い中、B29が一機、また数機、八千メートルから一万メートルの高空に白く輝くことが多くなった。
急上昇する日の丸の迎撃戦闘機がなすすべもなく撃墜されるのを幾たびか見た。
高射砲は、B29の下方で、空しく炸裂した。
本当にくやしく、歯ぎしりした思いが忘れられない。
近くの大きな栗の木の林には、疎開してきた軍需物資のテントが無数に張られた。
山の木のあちこちに、B29の投下した電波妨害の錫箔テープが白く光り、伝単が幾度か散ってきた。
タブロイド版の新聞の一面に「広島に新型爆弾落ちる」と大きく黒い字で書かれていた。
P51、グラマンの機銃掃射もあった。
戦局の不利はいやでも肌で感じとることができた。
この頃から、本土決戦を称え、苛立つ下士官クラスに対し、兵隊、軍属は、敗戦を予感し、諦めの声が陰でささやかれていた。

 4 食事情

食事は粗末であった。
丸大豆の多く混じった飯は、消化しにくく食べ盛りとはいえ、上手いものではなかった。
不思議と副食の記憶はないが、岩塩で味付けした汁の実に、スジの立つ人参の葉であったことが思い出される。
当番が川口川の丸木橋を渡った炊事場に、バケツを持って受領に行く。
時として、大学生が釜の下部にある米の多い部分をとってしまうため必然的に、豆の多い部分を受け取らざるを得なかったのは、小さな悲劇であった。
この大学生の一部は、ここから召集されたのか、この地の多くの人に日の丸の小旗で見送られた。
その光景はかすかな記憶であるが、同じ釜の飯を食った仲として大きな悲劇で終わっていなければと心から念ずるばかりである。
食べ物の思いはまだある。
マキを燃料とする風呂沸かしは当番制である。
自由に使える唯一の熱源であるこの火で、青大将やアカガエルを焼き、皆で食べたこともある。
気持ちよいものではないが、栄養補給を第一に考えてのことである。
農家の梅の実、トマトキュウリを黙って食べたこともある。
申し訳ないことをした。
八月の大空襲の夜、はるか周辺は夜空を真っ赤に焦がしていた。(注1)
この山間部にも、はぐれ焼夷弾が落下した。
中空で拡散する親子焼夷弾は、農家の乳牛を殺した。
「牛肉を食わせる」との予告が炊事兵からあった。
夕食の汁の実に指の頭ほどの牛肉が浮いていた。
期待に反した量だったが、そのうまさの記憶は今でも鮮明である。
川口川の清流は、飲料にも、洗面にも使われたが、夕食後この川で当番が食器洗いして一日が終わった。

 5 脱走

ただならぬ戦局の雰囲気と、極度の疲労から、怠惰な気持ちが、やがて強い不満へと変って行った。
誰いうとなく、脱走し、学校へ直訴しようというになった。
脱走はX日の深夜と決めた。
発見されないため各班の単独行動。コースは自由。集合場所は母校。夕食を残し、にぎりめしを用意することなど決めた。
決行の夜、思わぬ出来事が発生した。
Sが「腹痛で動けぬから、行ってくれ」と言う。
我々は肩を組んで連れて行く」と言う。
また、誰か一人残って看病するとの案もあった。
押し問答の末、多数決でS一人を残して脱走は決行された。
”朝になれば、巡回の衛兵に発見され、手当てしてもらえる”ことを後ろめたさの支えとして、後髪を引かれる行動であった。幹線道を避け、道なき山を越え、畑をよぎり、泥にまみれて八王子駅に着いた。
十キロメートルも歩いただろうか。
朝の街は静かに沈んでいた。
しかし一面の焼野原である。
焼け残りの土蔵が点々と立つのみである。
放たれた馬が一頭、駅前を歩いていた。
Nが駅前交番へ届けた。
改札は隊列を組んで、挙手の礼で通過した。
勿論、切符など持っていない。
購入証がなければ切符は自由に買えない時代である。
よく、通過できたものと今でも不思議に思う。
母校に到着したのは昼頃であった。
極度の空腹であった。
先生の驚きは大変なものであったろう。
軍隊の管理下にある動員生が集団脱走してきたのであるから・・
我々は叱られても上の空であった。
ただ、空腹を解消したい欲望だけであった。
食事の強い要求に、大釜で白米の飯が炊かれた。
タクアンのおかずであった。
うまかったが、条件がついた。「非常米で補充がつかないので、なるべく早く、一合の米を学校に返すように」と。
この一合の米は、まだ返していない。
その日は各自帰宅し、翌日(?)、八王子に復帰した。
指揮の下士官になぐられたのは言うまでもない。
残したSは急性盲腸炎で入院、手術したとのことであった。
自宅が近かったせいもあって、あの夜のことは、長い間心に重くのしかかっていたものである。
そのSは、今はこの世にいない。
心から冥福を祈るのみである。
以下省略



八王子大空襲と海軍部隊の進駐


 
注1 八王子大空襲 
 八王子大空襲は8月2日未明であった。180機のB29による間断ない焼夷弾攻撃を受け、八王子市街の8割を焼失し、死者500人以上、負傷者2000人以上、罹災世帯12700戸、罹災者数72500人に及んだ。川口村では八王子市街に近い楢原、犬目などにかなりの被害が出たほか、山間部の上川口、山入などにも被害が出た。ただ村の中心部の下川口を狙った焼夷弾が僅かに目標を外れ、山や谷戸に落下した。この為、下川口や海軍工廠の作られた上川口黒沢は災禍を免れた。焼夷弾の落下地点は海軍工廠から近いところで僅かに200メートル程の距離に過ぎなかった。

 注2 海軍部隊の進駐と学童疎開 
 
 昭和19年、川口村に奥田五郎海軍少佐率いる海軍第403部隊が進駐してきた。この部隊の目的は、アメリカ軍の上陸が予想される相模灘に面した相模海軍工廠を疎開、移転させるためであった。川口村上川口黒沢に、迷彩色で偽装した数十棟の工場を作り上げた。これが相模海軍工廠南多摩分廠で、その本部は黒沢という集落にあった。終戦間際になって、道路作りや工場の整地作業に、相模海軍工廠寒川工場に動員されていた小田原の相洋中学の生徒約60人が川口村へ移って来た。昭和20年6月のことである。完成した工場へは、静岡県伊東高等女学校の生徒や女子挺身隊などが動員された。女子については地元川口でも語り継がれているが、相洋中学の動員学徒についての話は残されていない。工場は通称黒沢入と呼ばれる谷戸の奥に建てられた。狭い支沢や窪地などに、大木などをカムフラージュにして点々と建ち並んだ。その跡地の一部はGMGというゴルフ場や産業廃棄物の埋立地、病院などに変り、面影を偲ぶことは出来ない。秋川街道から見ると、黒沢、森下、日向(ひなた)などと呼ばれる集落の北に横たわる山波の背後に当たる。動員された女子挺身隊は寺や農家などに分宿した。しかし相洋中学の学徒は民家や寺ではなく、川口川沿いの幕舎であったという。村民との接触が殆どなかったことや、期間が短かったこともあり、あまり存在を知られていなかったらしい。この他、同じ黒沢の円福寺に品川区の鮫浜国民学校の生徒が集団疎開で来ていた。個人や集団を含めた疎開で、川口村の人口は急増していた。更に別の海軍部隊も進駐して、木造艦船用の杉や檜を切り出し、松根油採取などが行われ、村は戦時一色に包まれていた。また大政翼賛会の婦人部長、市川房江女史の疎開は地元の婦人や青年団に大きな関心を呼んでいた。このような状況下で相洋中学の学徒の二ヶ月足らずの滞在は大きな話題にならなかったのかもしれない。

問い合わせ先
元川口地区郷土史研究会副会長 五味 元 042−654−5610 Fax  042−654−2851

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