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鳥栖観音堂と鳴鐘

八王子市川口町の片井戸という古い集落に、鳥栖観音堂という小さなお堂があります。このお堂には数々の伝説と歴史が秘められています。このお堂に掲げられていた釣鐘は鳥栖寺鳴鐘と呼ばれ、鎌倉時代の貴重な史実が刻字されていました。

最終更新 2006-05-13

鳥栖観音堂とは
新編武蔵風土記稿にはこんな風に記されています。
川口村の小字片井戸(かたいど)というところに内山(うちやま)という小高い山があり、その中腹に鳥栖観音堂がある。麓より二十間(36メートル)ほど上になる。三間(5.4メートル)四面のお堂で、向拝付、茅葺である。ご本尊の千手観音は木の立像で、行基の作と伝えられている。霊験あらたかなりという評判がある。徳川将軍家より八石六斗の御朱印を賜っている。鳥栖(とりのす)と呼ばれるのには訳がある。その伝えられるところによると、このお堂は昔、同じ川口村の小字黒沢(くろさわ)という所にあった。今もその地を御堂山(みどうやま)といい、礎石などが残っている。この所にあったとき、火災に遭い、その時ご本尊は火中を遁れて東の方にあった鴻ノ巣(とりのす)に飛び移った。そこで、この場所にお堂を建て、安置した。今のお堂より5〜6丁(540〜648メートル)ほど離れた場所で、もとの御堂山よりは八丁(864メートル)ばかり離れている。ここは、今も古鳥巣(ふるとりのす)という。後にこのお堂もシ焼失したが、ご本尊はまた飛び出して村内の河辺に留まった。そこで、この場所にお堂を建てて安置した。この場所は今も御堂ケ谷戸(みどうがやと)という。後にここから今の場所に移した。このようなことから、鳥の巣に留まった故にそれを号(呼称)としている。ごく最近まで、文字も鳥ノ巣と書いていたと言うが、これは鎌倉時代の元応年間に作られた梵鐘の銘によれば、正しくないようだ。縁起に記されたところも大体同じようなことが書いてあるのだが・・・ただ、こうも云う。昔、黒沢にあった時は本堂、坊舎、甍を並べ、惣門、鐘楼まであって、繁栄していた。後焼失して、仮に小堂で営んでいたが、応永の初め、河口兵庫介(助)、もとの如く本堂以下を建立した。しかし、それも天正年間(1590)、八王子兵乱(豊臣秀吉による八王子城攻め)の時に、災いにかかり、その折に火中を飛び出して、お堂の前の水田に留まった。故に千年の星霜を経て、本尊はつつがなく、今も土地の人は、火災の厄を免れようと願かけをするという。



千年の星霜をへてつつがなき本尊:千手観音 伝行基作

現在の鳥栖観音堂は


 新編武蔵風土記稿に記された場所に今もある。ただ、茅葺ではなく瓦葺になっている。火災除けの観音様として火防(ひぶせ)のご利益があるとして信仰されている。1822年にご開帳した八王子三十三観音にも定められ、9番札所になっている。地域の信仰も厚く、毎年4月にご開帳がある。古鳥ノ巣という場所は今も特定されるが、それを知る人は殆どいない。

鳥栖寺鳴鐘とは


鳥栖観音堂には、古い釣鐘が下がっていたと言う。この釣鐘がいつまで下がっていたかはわかりませんが、現在はありません。明治十九年に盗難にあったという記述がありますが出典は明らかでありません。また今次大戦で供出したという説もあります。川口の郷土史に詳しい楠正徳さんは、釣鐘は見たが、由緒あるものではなく、火事のときに打ち鳴らす半鐘のようなものだったと言っています。今はありませんが、実在した江戸時代後半の、新編武蔵風土記稿や武蔵名勝図会などに、どんな鐘だったか、その鐘にどんな文字が刻まれていたかなど、きちんと書き残されています。それによって、この川口がはっきり所在のつかめなかった藤原氏の荘園「船木田新庄」の中心地であり、八王子市の発祥地の一つであることも明らかになっています。なぜなら、八王子市のほぼ全域が、淺川を中心とした藤原氏の荘園、船木田本庄、船木田新庄に含まれ、本庄は由木、新庄は川口に中心があったと考えられているからです。、鐘銘から荘園の支配者である地頭が川口にいたことがわかります。新庄は藤原一門の一条家から藤原氏の菩提寺、東福寺に寄進され、その年貢算用状から川口を中心とする荘園の広がりや含まれる郷村名と年貢高がわかり、川口が北川口郷、南川口郷に分かれていたこともわかりました。


 新編武蔵風土記稿


 川口村総説より

 川口村は多摩郡の中ほどにあり、柚井郷に属している。考えてみるに、村内鳥栖観音の元応二年の銘文に武州□□岡新庄北河口郷とあり、これによれば、昔は庄名を唱えていたようであるが、の部分が滅して読めないので、これ以上のことはわからない。また、この鐘銘によるときは、昔、南北の呼び方があったようである。

 川口村本文より

 鳥栖観音堂の鐘

 堂に古い釣鐘が掲げられている。大きさは径一尺五寸(45センチ)であるが、高さは径に比してかなり高く、とても古いもので、いかにも由緒ありげである。次のように刻字されている。
武州
岡新庄北川口郷鳥栖寺鳴鐘
元応二庚申年(1320)十一月二十日
大檀那地頭
□□信何
大勧進阿闍梨


 伝えられるところによれば、この鐘は天正十八年(1590)八王子城攻めの時、寄せ手の陣鐘(じんがね)に用いたらしく、この所より二里(7.4キロ)隔てた西の方、戸倉村(現あきる野市)高厳寺にあったのを明和八年((1771)銘文をみて当寺の鐘であるがわかり、同年の八月に当寺へ返されたと言う。

 最近の研究や文献から

 この釣鐘は、江戸時代の中期になって、なって、なぜか五日市の先にある高厳寺というお寺で発見された。なぜ高厳寺にあったか、謎であるが、新編武蔵風土記稿や名勝武蔵図会で指摘されているように、八王子城攻撃に際して、上杉景勝の軍勢が、支城の桧原城を攻撃した際、犬目町の兜原を出発し、川口の各地に火を放ちながら進み、鳥栖観音の下を通過した。(旧道は鳥栖観音の直下を通っていた)その際、観音堂を壊し、本尊を前の水田にうち捨て、釣鐘を陣鐘に掠め取り、それを担いで今熊山の北を抜け、戸倉に進み、城方にゆかりの高厳寺(戸倉城ともいう)を責め、戦いの後、そこに放置したものを寺が引き取り、利用したのではないかと考えられる。川口ではこの鐘の返還を求めたが寺側が応ぜず、止む無く、村内に寄付を募り、新しい同形の鐘を鋳造して、これと交換してもらったという。この話は武蔵名勝図会にも載っているが、地元にも同じような言い伝えが残っていた。
当時のこととして、 
は摩滅して解読不明。□□岡新庄は現在の歴史研究で船木田新庄の文字が正確に読み取れ無かったものと考えられている。地頭とは荘園を治める領主、大檀那とは、お金を出した人で、当時では領主以外、大檀那にはなれない。□□信何とは、川口信だとして、川口氏が出家して近くにある時宗法蓮寺の法名を頂いたとする史家も多いが推論の域を出ない。大勧進とはこの場合、鐘の製作を依頼した寺方で、阿闍梨は真言宗の高い僧の位、宝生寺史では、□賢とあるのを円福寺開山の智賢法印の法系に属する大賢ではないかとしている

              元川口地区郷土史研究会 五味 042−654−5610
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