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鳥栖観音堂と鳴鐘
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鳥栖観音堂とは
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千年の星霜をへてつつがなき本尊:千手観音 伝行基作 |
現在の鳥栖観音堂は 新編武蔵風土記稿に記された場所に今もある。ただ、茅葺ではなく瓦葺になっている。火災除けの観音様として火防(ひぶせ)のご利益があるとして信仰されている。1822年にご開帳した八王子三十三観音にも定められ、9番札所になっている。地域の信仰も厚く、毎年4月にご開帳がある。古鳥ノ巣という場所は今も特定されるが、それを知る人は殆どいない。 |
鳥栖寺鳴鐘とは
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新編武蔵風土記稿 川口村総説より 川口村は多摩郡の中ほどにあり、柚井郷に属している。考えてみるに、村内鳥栖観音の元応二年の銘文に武州□□岡新庄北河口郷とあり、これによれば、昔は庄名を唱えていたようであるが、□の部分が滅して読めないので、これ以上のことはわからない。また、この鐘銘によるときは、昔、南北の呼び方があったようである。 川口村本文より 鳥栖観音堂の鐘 堂に古い釣鐘が掲げられている。大きさは径一尺五寸(45センチ)であるが、高さは径に比してかなり高く、とても古いもので、いかにも由緒ありげである。次のように刻字されている。 武州□岡新庄北川口郷鳥栖寺鳴鐘 元応二庚申年(1320)十一月二十日 大檀那地頭□□信何 大勧進阿闍梨□賢 伝えられるところによれば、この鐘は天正十八年(1590)八王子城攻めの時、寄せ手の陣鐘(じんがね)に用いたらしく、この所より二里(7.4キロ)隔てた西の方、戸倉村(現あきる野市)高厳寺にあったのを明和八年((1771)銘文をみて当寺の鐘であるがわかり、同年の八月に当寺へ返されたと言う。 最近の研究や文献から この釣鐘は、江戸時代の中期になって、なって、なぜか五日市の先にある高厳寺というお寺で発見された。なぜ高厳寺にあったか、謎であるが、新編武蔵風土記稿や名勝武蔵図会で指摘されているように、八王子城攻撃に際して、上杉景勝の軍勢が、支城の桧原城を攻撃した際、犬目町の兜原を出発し、川口の各地に火を放ちながら進み、鳥栖観音の下を通過した。(旧道は鳥栖観音の直下を通っていた)その際、観音堂を壊し、本尊を前の水田にうち捨て、釣鐘を陣鐘に掠め取り、それを担いで今熊山の北を抜け、戸倉に進み、城方にゆかりの高厳寺(戸倉城ともいう)を責め、戦いの後、そこに放置したものを寺が引き取り、利用したのではないかと考えられる。川口ではこの鐘の返還を求めたが寺側が応ぜず、止む無く、村内に寄付を募り、新しい同形の鐘を鋳造して、これと交換してもらったという。この話は武蔵名勝図会にも載っているが、地元にも同じような言い伝えが残っていた。 当時のこととして、 □は摩滅して解読不明。□□岡新庄は現在の歴史研究で船木田新庄の文字が正確に読み取れ無かったものと考えられている。地頭とは荘園を治める領主、大檀那とは、お金を出した人で、当時では領主以外、大檀那にはなれない。□□信何とは、川口信阿だとして、川口氏が出家して近くにある時宗法蓮寺の法名を頂いたとする史家も多いが推論の域を出ない。大勧進とはこの場合、鐘の製作を依頼した寺方で、阿闍梨は真言宗の高い僧の位、宝生寺史では、□賢とあるのを円福寺開山の智賢法印の法系に属する大賢ではないかとしている 元川口地区郷土史研究会 五味 042−654−5610 |
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