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 透谷と八王子
               ホープ
   ―豪族の専横と「希望」の故郷―
                          
                     法政大学教授 小澤勝美
        

  はじめに 

 今何故透谷を取り上げる必要があるのでしょうか。また透谷と八王子は何故関わりが深いのでしょうか。この二つの問いから考えてゆきたいと思います。
 最近勉誠出版から出した『透谷・漱石・独立の精神』という本の冒頭で、私は次のように書きました。 
「今日の政治、経済、教育の崩壊現象は、日本という一国のみの現象ではなく、世界的規模での危機の深化であり、母親による子供の保険金目当ての殺人に象徴される人倫の崩壊は、人間の内部の深いところにある何かの喪失によって起きていることは間違いない。」 
 しかし、われわれは、そこからいかにして脱出し、二十一世紀に生き延びたらよいのか。その時、自由民権運動の挫折・崩壊の時代に、そこに生きる人間たちの<内部崩壊>を的確に把握した上で、その対極に<内部生命>に支えられて生きた二宮尊徳や秋山国三郎といった積極的な「民衆」像を文学作品に表現して残してくれた北村透谷が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 また、この川口という土地に何故困民党事件が起こり、透谷・大矢・秋山国三郎という三人のドラマが生まれたかというと、そもそもこの土地は山地でも平野でもない傾斜地であり、水田や畑での耕作よりも桑を植えて生糸を生産するのに適した土地であったことが大きな背景になっていると思われます。明治維新と共に横浜貿易による生糸の輸出は、この土地の農民に大きな夢を与えました。旧横浜街道は「絹の道」としての賑わいをみせ、農民の生活のレベルは飛躍的に向上したのです。ところが、明治十年代の松方大蔵卿のデフレ政策は、この農民たちの夢をうち砕き、一挙にどん底に突き落としました。
 農民たちは金づまりのために田畑を抵当にして高利貸から借金をし、ついには破産にまで追い込まれました。明治十七年、その農民の窮状を見るに忍びず立ち上がったのが困民党であり、、その先頭に立ったのが、塩野倉之助や町田克敬、須長漣蔵といった村の指導者たちでした。秋山国三郎は表立った指導者ではありませんでしたが、彼もまた松方デフレによって興廃の瀬戸際に立たされた川口村の再建に真剣に取り組んでいたものと思われます。
 透谷は、小田原藩の没落士族の子弟として、初めのうちは自由民権運動の政治家としての立身出世を夢見て横浜県会に出入りし、当時神奈川に属した三多摩(八王子を含む)の議員たちともつながりを持つようになって、川口村や八王子に来るようになったわけですが、透谷がこの地において秋山国三郎や秋山文太郎と深い結びつきを持ったことが日本の近代文学史に残る数々の名作を残すきっかけを作ったことは、わたしたち八王子市民にとって大いに誇りとすべきことではないでしょうか。

 
 <豪族の専横>とは何か

 私は、一九九九年六月十二日、日本社会文学会春季小田原大会の研究報告を準備する中で、透谷と小田原の関係を新たに「函東会」の資料を中心に分析し、「三日幻境」の中の「豪族の専横」という表現が、日本の新たな対外進出をもくろむ薩長藩閥政府の、なりふり構わぬ民権派議員排除のための横暴な行為、すなわち明治二十五年二月、死者二十五名、重傷者四百名に及ぶ負傷者を出した<選挙大干渉事件>を指すことを確信するに至りました。
 透谷は、自分たちに都合の悪い民権派の議員を国家権力による暴力で排除する薩長藩閥政府
に対して、これを「つらにくしとも思ずうなじを垂るヽ」つまりそれに対して批判の声を上げようとしない小田原函東会の面々に失望し、それに引き替え、川口村の民衆が、上野の戦争で薩長と戦って戦死した川口村出身の原子剛の顕彰碑を建てるというかたちの行動を通じて、薩長藩閥政府に隠然たる抵抗の意志表示を行ったことに深い感銘と共感を寄せたのです。

 
天然理心流・楠正重道場
  
 本年五月二十六日(土)、法政大学「多摩の歴史・文化・自然環境研究会」(多摩研)の例会に於いて、楠正徳氏による「天然理心流・楠正重道場」についての発表が行われる予定ですが、私自身も『透谷と秋山国三郎』および『透谷と多摩―幻境・文学研究散歩―』の中で、楠先生からご教示いただいたことや、山本正夫編の『多麻金石文 二』(昭和四十八年四月)を基に、楠正重について書いているので、ここにもう一度その内容を簡潔に要約しておきます。
 楠重次郎正重は、父を織右衛門といい、八王子千人同心の家柄に生まれました。嘉永六年八月、天然理心流三代目松崎正作の弟、松崎和多五郎則栄に剣法を学んで免許皆伝を受けましたが、度々将軍の上洛に供奉し、慶応元年五月からの長州への出兵にも参加して大阪かち広島、小倉、日田、松山にまで転戦し、慶応二年十一月郷里の八王子に戻りました。               
 翌慶応三年三月、原子剛、和田義質、渡辺永秀等と共に「壮兵隊」を組織し、地域の治安維持に当たる一方、同年五月、上野の彰義隊の戦闘にも同志と共に参加して、原子剛は戦死し、楠正重は九死に一生を得て八王子にもどりました。その後、幕府は朝廷に降伏し、楠正重は川口村に雌伏すること十年余り、やがて明治十四年、北海道官有物払い下げ事件で世論が沸騰すると、時運り来るとばかりに天然理心流の楠正重道場を開設し、五日市憲法で名高い五日市学芸講談会の会員でもあった武内大造のような民権家が入門しました。
 そして、すでに述べたように、明治二十五年、選挙大干渉事件が起こると、原子剛の顕彰碑を建てることで薩長藩閥政府に一矢を酬いたのです。

 
「内部生命」と「希望」の故郷

 「希望」にはホープというルビを付すのですがwebページでは出来ませんのでお許し下さい。
 透谷は、明治二十五年七月末、七年ぶりに川口村を再訪し、「三日幻境」に於いて、日本の近代文学史に永遠に残るような、魅力的な秋山国三郎像を書き残しましたが、それは秋山国三郎個人とその家族の顕彰であると同時に、それが川口村をはじめ広汎な多摩の民衆に支えられたものであったことを忘れてはならないと思います。
 そして同じ年の十一月十六日の「日記」に透谷は、「来年春八王子に遊て荒村行を著し政治社会を動かすべし。その主人公は女にて美しき機織なり、男は政治に狂奔して東西に奔走して帰らず、云々」と書きましたが、残念なことにそれは実現しませんでした。その理由は色々考えられますが、第一に、川口村の原子剛の顕彰碑建立運動に見られた民衆の正義を求める気持ちも、いざそれを具体的に現実の政治の世界に生かそうとなると、そう単純に結集出来るものではありませんし、第二に、透谷の内部では、『宿魂鏡』という小説や、「「罪と罰」の殺人罪」という評論に見られるように、人間の内部の闇に潜む暗い欲望や「まがつみの魔力」ともいうべき不可思議な力に、文学的な関心が移ってきたことがあげられます。
 しかし、二月になると、透谷は「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という文章を書き、山路愛山との間で、いわゆる<人生相渉論争>を闘わせることになります。そして、その理論的な内容が、あのすばらしい「内部生命論」に結実したといってよいでしょう。
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