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      透谷の文学と風景
                

                               川口西部  高澤寿民

 
 川口が誇れる記念碑が、上川町東部会館横に建立されている。いうまでもなく、森下の秋山国三郎と北村透谷との親交を記念して建立されたものである。この二人の邂逅無くして近代文学の名作「三日幻境」は生まれなかったといえる。
 久保喜一会長から、透谷文学について原稿を依頼されたが、透谷について語り、しかも活字にすることに畏れさえ感じる。透谷の文学を読まずして近代文学を語ることはできないとさえいわれている。そこで、先学に導かれながら、透谷に関する批評や、好きな作品のいくつかに触れたい。
 透谷が初めて世に問うた、「厭世詩家と女性」に木下尚江と島崎藤村は、大砲をぶち込まれたようだといい、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」を読んだ時と同じ感動を受けたという。島崎藤村は「最も高く、遠くを見、拾い切れないほどの光り輝くものを残した」とも語っている。透谷の後を藤村、独歩、花袋や有島も辿っているのである。勝本清一郎は「明暗」を書いた漱石だけが近代への疑問と、人間のエゴイズムについて取り組み続けたと書いている。
 「人生に相渉るとは何の謂いぞ」を読んで、世俗性が強く打算的な自分を恥ずかしいと思った。透谷は天才詩人であるばかりでなく、人情家であったことが次の挿話でうなずける。落魄した会津武士主従を招いて食事をさせ、何も問わずにその場所から立ち去ったという話【注一】や友人たちの話として窮迫している友に金子を置いてきたということなどが伝えられている。色川大吉氏は「透谷は死を意識した頃、ミナ夫人に貧しい人々、侮られ恵まれぬ人達を助ける仕事を私に代わって実行して欲しい」と依頼したという。氏は続けて透谷の目は常に弱者に向けられていた、と記している【注二】。一方、体制的な蘇峰や紅葉、鏡花など硯友社一派への批判は厳しかった。
 透谷晩年の「一夕観」などには、仏教でいう諦観と無常観すら漂っていると思う。私も折りがあれば「一夕観」を生んだ国府津の海岸に佇んで、月や星、空を見ながらこの作品を読んでみたいと思う。
「時勢に感あり」を読んだ中野重治はこの青年の前に詭拝する。と言ったことは有名である。最晩年の「哀詩序」や一連の蝶の詩、わけても「雙蝶のわかれ」を読むとき、別離の哀しさが伝わってくるのである。この詩を、ミナ夫人が自分との別れを読んでいたと信じていたことに私は救いを感じる。
 小澤勝美氏による透谷と漱石の研究は、新鮮で多くのことを教えてくれる【注三】。私は漱石が慎重に創作したのに比べ、透谷は苛立たしく、激しく、詩や評論を書いたような気がする。私の晩年は、この二人の作品を読み直すことからしなければならない。 私は一昨年、二十周年記念誌に今回と同じように拙文を寄せたが、その時、特に気持ちを込めて書いたのが次の文章で、ここに改めてその一部を記してみたい。北村透谷と秋山国三郎が親交を結び、千葉卓三郎の足跡を伝えるものは川口にしかない。日本の透谷がこの川口で数カ月を過ごしたのである。このことは郷土史の範疇に加えることはためらわれるほどの川口の輝かしい歴史ではないだろうか、と。 
 武相民権百年行事が各地で行われ、私も出来る限り参加した。町田地方史研究会の催しにお元気だった西城千鶴子さん(透谷の孫)が遺族を代表して挨拶され、「自由は守り続けられるのか」と話された。その折、主催者の一人でもある堀江泰紹氏との写真は鶴巻孝雄氏が撮られたもので、沸き立つような思いを伝える貴重な一枚である。
写真は省略します。お許し下さい
 三月半ば、原稿を書くため先ず幻境碑周辺を歩き、法蓮寺の二基の碑、さらに富士森に建立されている石阪昌孝の碑を訪ね、建立時の光景を想像しながら周りを散策した。富士森の高台に建つ三メートル余の巨大な石碑を見上げながら多摩の政治風土を考えた。建立に際して、ミナ夫人が謝辞を述べたといわれるが【注四】、ミナ夫人にとって感慨深かったのではないか、と想像される。昌孝氏が資産を傾けながら育てた三多摩の政客達が当時勢威を誇っていたであろうことは裏面の発起人総代として森久保作蔵、村野常右衛門という名前が物語っている。題額の海軍大将樺山資紀伯爵こそは、かって軍縮を求める民権派壮士を一喝したその人である。その人達の名が一つの碑に刻まれていることに深い因縁を思い、これが歴史というものかとしばらくは立ち去り難かった。法蓮寺の二基の石碑も、鎮魂のための碑であろうと思った。原子剛の碑は、当にそうであろうと想像した。この碑については他の人が書くので、私見をわずかに述べるに止めたいが、三百名近い三多摩一円の賛同者の名前を手で一つ一つなぞりながらやはり歴史を考えないわけにはいかなかった。一際大きく石阪昌孝の名前が刻まれ困民党事件で投獄された塩野倉之助、秋山増蔵等々の名前を見ながら、私にはやはり明治政府へのレジスタンスの色濃いことが窺われた。撰文末尾の「丈夫殉節、義勇凛然、君骨雖朽、君名可伝」に反骨の多摩人士の気概が感じられるのであった。ここで私は、ある著名な文学者による明治文学は佐幕派の子弟によって担われた、ということを思い出したのであった。碑が建立された明治二十五年という年は激動の年で、悪名高い品川弥次郎の選挙干渉で、流血の選挙戦が展開され、金貸業の伊藤治兵衛が殺害され騒然とした空気が多摩全体を覆っていた年である。注目されるのは、北村透谷が七年ぶりに森下の秋山国三郎を訪れ、その時の状況が名作「三日幻境」となったのであるが、原子剛の建碑と三日幻境が同じ年に川口を舞台に、と考えるとこの二つの事がどうしても一つにならず離ればなれになっているように思える。早急な結論は慎むべきだが、私には二つの世界があるような気がした。透谷は碑の建立に関わった人たちとは別の世界にいたのである。それが透谷なのだ、と思った。法蓮寺を後にしながら、秋山国三郎は「三日幻境」を読んでいたのであろうか、ということが頭をよぎった。  
 透谷は二十七歳で自死するが没後百年余、透谷文学はますます輝きを増しているのである。ゆがんだ繁栄からさめつつある今、小澤勝美氏の言われるプシコイデオロギー、霊魂の文学が問われなければならない【注五】。霊魂の文学とは、政治も経済も突き破った生命の根源に迫るのである。反俗、反権力の透谷の思想は、怠惰な私たちの心を揺さぶり続けてやまないのである。
 時は移り、森下の風景がどのように変わろうが「三日幻境」は永遠に読みつがれるであろう。それが文学である。
 終わりに幻境碑除幕式当日、秋山国三郎曾孫秋山得吉氏の詠んだ句を挙げて結びとする。 
     梅雨晴れて除幕美し幻境碑
                   得吉 
注(一)北村透谷全集(客居偶録)(二)色川大吉 (北村透谷)(三)小澤勝美 (透谷・漱石独立の精神)(四)渡辺奨・鶴巻孝雄(石坂昌孝とその時代)(五)小澤勝美(透谷と漱石)


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