トップページへ戻る 北村透谷の幻境へ戻る

  森下の里から国府津の浜へ

                     川口西部 五味 元


 
北村透谷について


 私は会の役員という立場以外に、透谷と国三郎について、何の知識も持ち合わせていません。先学諸先生方の評論や論文、及び透谷の作品を若干読んだだけです。会員の皆様の中にも私と同じような認識の方がお有りと思いますので、まず北村透谷とはどのような作家であったのかということについて紹介したいと思います。引用したのは透谷の生地、小田原市の文学館に掲示されていたものです。
    北村透谷
「詩人、評論家。小田原城下唐人町に生まれる。本名門太郎。北村家は小田原藩士の家系であった。透谷は幼少期を小田原で過ごし、明治十四年家族と共に東京へ移転。小学校卒業後の透谷は自由民権運動にも興味を示すが、十八年頃から文学の道に進むようになる。二十年石坂ミナと熱烈な恋愛に陥り、その苦しみのなかでキリスト教に入信、翌年結婚、二十二年代表作の一つ『楚囚之詩』を自費出版。二十六年島崎藤村らと「文学界」などの評論で、日本近代文学としての浪漫主義運動の先駆となる。小田原にはその後二十三年に早川、二十六年に前川と、それぞれしばらくの間仮寓した。代表作には評論『厭世詩家と女性』評伝『エマルソン』、詩劇『蓬莱曲』などがある。二十七年自宅の庭で自殺、墓所は高長寺(城山)にある。」
 

 
小田原の史跡見学

 会では、四月一日に小田原市の史跡見学会を行い、小田原城や北条五代の歴史と共に、次ぎのような透谷関連の史跡を見学しました。
(一)北村透谷記念碑
(二)小田原文学館
(三)透谷の墓所・高長寺
(四)透谷の生地・唐人町
(五)北村家菩提寺・長泉寺
 地元歴史ボランテイアの方々から懇切丁寧、かつ情熱的な説明を受け、地元の透谷に寄せる深い想いに感動しました。 なお、この見学会については十四ページに平山幸子さんが詳しく書いております。ご参考にして頂ければ幸いです。 

 
 『三日幻境』と『一夕観』

 透谷が生まれた小田原の唐人町は海に近く、幼き日の透谷こと門太郎はこの浜でよく遊んだとの事です。生地の海が透谷の自然観に深く入り込んでいるのではないかと思いました。この浜辺から続く国府津の浜を前にした長泉寺で海と対峙し、自らの人生を見つめ直した作品に『一夕観(いっせきかん)』があリます。それと対照的なのが山里の自然と人情を描いた『三日幻境』だと思います。そしてその舞台となったのが、我が川口村森下だったのです。。
 本稿では、明治ロマン主義文学の精華とも言うべき透谷の作品を部分的に引用し、透谷について皆さんと共に考えて見たいと思います。


 
幻境の里・川口の森下
 
 川口川の清流に沿って開けた川口村(現八王子市川口町、上川町など)は南に川口丘陵、北に秋川丘陵をたなびかせ、のどかな里山風景を残しています。明治の時代は養蚕を主とする寒村でした。秋川丘陵の一角に天神山とよばれる小ピークがあり、ここはかつて鬱蒼たる松の巨木に覆われていました。これを天神の森と呼び、その下に開けた集落を森下と呼んだのです。この森下に、空を舞う白鷺のように近代文学の先駆者として頭角をあらわした北村透谷が幾度か飛び来り羽根を休めました。       
 透谷をこの地に呼び寄せたのは自由民権運動の先鋭的な活動家で、上川口小学校の教師であった大矢正夫(蒼海)であり、止まり木となって透谷の心を癒したのは森下の住人で、義太夫に一芸を有し(太夫名=琴太夫)、俳句を吟じ(俳号=龍子)、剣の道に優れた秋山国三郎でした。
 透谷が二度目に森下を訪れた時、透谷、蒼海、国三郎はそれぞれの分野で充実した活動をしていました。肝胆相照らした三人は国三郎の家で共同生活に入ります。この時、透谷の心に希望(ホープ)の故郷〈幻境〉が芽生えます。森下の丘陵で炭を焼きます。その汗が透谷の文学に民衆のエネルギーを与えました。共同生活の一夜の様子が『三日幻境』にこう記されています。
 おもむろに庭樹を瞰(なが)めて奇句を吐かんとするものは此家の老畸人、劒を撫し時事を噴ふるものは蒼海、天を仰ぎ流星を數ふるものは我れ、この三個一室に同臥同起して玉兎(ぎょくと=月)幾度か罅(か)け幾度か満ちし 
 それから七年の歳月が流れました。松島に遊び、芭蕉の足跡を辿った透谷の心に突如として俳句を吟ずる龍子・国三郎の面影が浮かび、矢も盾もたまらなくなり、幻境再訪となるのです。

 
 
〈幻境〉に待つ国三郎

 透谷が幻境にたどり着いた時、夜は更け、あいにく国三郎は留守でした。翌日網代鉱泉に憩い、夕方になってから国三郎の家に戻ります。そこには透谷、国三郎の感動の再会がありました。まさに『三日幻境』の核心であり、私の心を震わせるところです。
 この時弦月(げんげつ=満月)漸く明らかに妙想胸に躍り歩々天外に入るかと覺へたり。棲上には我を待つ畸人あり、棲下には晩餐の用意にいそがしき老母あり、弦月は我幻境を照らして朦朧(もうろう)たる好風景得も言われず。階を登れば老侠客莞爾(かんじ)として我を迎へ相見て未だ一語を交わさざるに滿堂一種の清気盈(み)てり。
 積もる話しに夜は更けて行きます。透谷は国三郎の好きな俳句でこう語りかけます。
 七年を
    夢に入れとや水の音
 国三郎家の前を川口川の清流が瀬音を立てて流れていました。更に透谷は詠みます。
 越えてきて
     又一峯や月のあと
 障子の外では、弦月が外界を照らし、南の空に川口の名峰天合峯が黒々と横たわっていました。

 
心に秘めた故郷の海
 
 透谷は先祖の眠る国府津の前川にある長泉寺に仮寓しました。長泉寺からは眼下に海が広がっていました。透谷はここで執筆した『一夕観』の冒頭にこう記しています。
 ある宵われ窓にあたりて横たはる。ところは海の郷、秋高く天朗らかにしてよろずの象、よろずの物、凛呼として我に迫る。恰も我が真率ならざるを笑うに似たり。
 己がいかに正義を全うしてきたか、澄んだ秋の空に見透かされていると己を叱咤激励するのです。またこう記しています。
 われ歩して水際に下れリ。浪白く万古の響きを伝え、水蒼々として永遠の色を宿せり。手を拱(こまね)きて蒼穹(そうきゅう)を察すれば、我れ「我」を遺(わす)れて、飄然(ひょうぜん)として、襤褸(らんる)の如き「時」を脱するに似たり。
 漢詩を読み下すような流麗な響きがあると思います。
 透谷は心の奥に故郷の海を宿し、ホープの故郷〈幻境〉をわが川口の森下に求めました。
 透谷の数少ない年賀状と国三郎自筆の句集『安久多草紙』が森下の秋山国子家に残されています。森下には国三郎に縁りの秋山得吉氏と秋山国子さんが健在です。村松勉氏、秋山得吉氏、秋山国子氏のご協力に感謝して筆を置きます。
原文引用「北村透谷・山路愛山集」筑摩書房刊(側線部は異体字)
トップページへ戻る 北村透谷の幻境へ戻る