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 橋本義夫氏を中心とした透谷研究


      ―「幻境」碑の建立をめぐりてー
                            
                         
楢原東部  橋本岩雄
 
 
 はじめに
 
 多摩地方は青年期の北村透谷にとって、政治にそして文学へと模索していた貴重な時期に係わる地であり、妻の美那子の生地でもある。神崎清氏は「小田原を少年時代の郷土とすれば、自由党で有名な三多摩地方(野津田・八王子・森下)は透谷にとって青年時代の郷土であった。」と語っている。昭和九年(一九三四)四月號の明治文学研究「特輯北村透谷號」の神崎氏の北村透谷遺稿解説には「この文献(富士山遊びの記憶)の出現によって透谷の足跡が判明するに至った。日野町の滝瀬金吾君を煩わして、その間の事情を調査してもらってるが病ひのため、同君報告が透谷號の間に合はなかったのは残念であった」と記されている。
 昭和八年明治文学談話会員として北村透谷研究会に所属し「透谷と三多摩地方」を報告することになっていた滝瀬氏は、友人である浅川町の細川喜治氏と共に森下の秋山家を訪ねたらしいが、透谷の資料を発見することはできなかった様である。ちなみに滝瀬氏は多摩地方での透谷研究者としての草分的存在でもある。

 
橋本義夫氏と透谷
 
 橋本義夫氏は自分の経営する揺籃社の常連であった滝瀬氏から、透谷の「三日幻境」や新らたに発表された「富士山遊びの記憶」などの話しを聞いた。それは身近な川口村の事であり、秋山国三郎に関わる事であった。橋本氏は驚喜し,早速岩波文庫の「北村透谷集」を手にして同級生であった秋山得之氏を森下に訪ねた。この秋山氏は国三郎の孫に当たる人で家は昔宿屋をしていた。秋山氏に透谷の事などを説明し文庫を与え、国三郎の遺品などを見て、透谷や大矢正夫の暮らした家であることを確認した。その後数回秋山家を訪問したが透谷についての資料を見付けることは出来なかったらしい。この時,橋本氏は感動を受けたこの幻境の地を後世に残すべく、森下に「透谷記念碑」の建立を思い立った。しかしその後滝瀬氏は文学からは遠のき,橋本氏は文化運動を思慮しながら日々を送る様になった。
 昭和二十五年(一九五〇)四月勝本清一郎氏の透谷全集が岩波書店から刊行された。これに刺激された橋本氏は友人松岡喬一氏に多摩と透谷のことを語ったところ松岡氏は大いに驚き、これを機に透谷に傾倒し研究を重ねるようになる。そして翌年の文化の日を卜として、橋本氏と松岡氏は、掲示板を森下の秋山国三郎旧宅の羽目に打ち付けた。松岡氏の提供の杉板に足利正明氏の筆になる掲示板であった。趣旨は由緒ある森下の地を永く顕彰し、幻境の地の感動を多くの人々に伝えるというものであった。この掲示板には橋本氏の蓄積された思いが凝縮していた。

 

 
北村門太郎の葉書
 
 私が透谷のことを知ったのは更に一年後れの八月の事である。橋本氏を訪問した折「三日幻境」などのことを聞かされた。それは詩人透谷ではなく、この地を愛した文学者透谷の姿であった。その後私は「三日幻境」など透谷の作品を思量する日々を過ごす様になった。その年の暮二十六日、秋山光雄氏が私の勤務先に一通の葉書を持って訪れ,「大掃除をしたら北村とある葉書が出てきたが透谷と関係があるのではないか」という。光雄氏は国三郎の曾孫で我々青年の仲間である。葉書は明治二十六年一月二日付秋山国三郎宛の北村門太郎の差出人なる賀状であった。私は透谷の筆跡を確証することは出来ないながらも、直ちに透谷からの葉書であることを強く感じた。それは透谷と幻境を結ぶ貴重な証拠であることを彼に告げ、大事に保管する様に依頼して共に喜んだ。この葉書は翌年一月八日付読売新聞三多摩版に載り、透谷全集第三巻の手記及び書簡の項に収まった。
 

 
透谷の研究
 
 賀状の発見により奮起した秋山光雄氏を中心とする上川口の青年達は、次ぎのような講演会案内状を発した。
 『明治文学の先覚者又自由民権運動者北村透谷が川口村にゆかりの深い「三日幻境」を発表してより六十年ここに私達はこれを記念して講演会を左記の通り開催致します、三多摩自由民権、文学の一端の研究のためご参加下さるようご案内申し上げます。
          記          
 一 日 時 二月一日午後一時より
 一 場 所 川口村上川口  森下会館
 一 講 師 都立国立高校  鈴木亨先生
昭和二十八年一月二十六日 川口村上川口青年グループ』 
これは多摩の地における透谷についての初めての講演会で、橋本、松岡両氏の努力によって企画されたもので、講師の鈴木亨氏は三田文学同人で松岡氏の知人であった。私も松岡氏に同道して講演のお願いに日野町の鈴木宅を訪問したりした。当日は寒い日で参加者も少なかったが有益な会合であった。講演が終わって参加者達は秋山光雄氏宅へ場所を移し「透谷研究会」の設立を決めた。目的としては透谷の研究と、没後六十年を記念して幻境の碑を建立することであった。
 その後、橋本氏の努力により記念事業も着々と進み、「幻境」の碑文も国三郎ゆかりの秋山達三氏の筆になる立派なものが出来た。文集「幻境」も発行して準備が整ったが、地元と話し合いが出来ず延び延びとなった。建立予定地も下川口、犬目など点々とした末、ひよどり山と決めざるを得なかった。碑文も異論を唱える者が現れ直前になって「造化の碑」と改められて透谷を顕彰する碑となった。
 昭和三十二年(一九五七)十月二十六日の記念碑除幕式の模様を読売新聞地方版は「式は二十六日午後一時透谷の出身地である小田原からきた同市長代理社教課長中野啓次郎氏を始め関係者二十余名が参列、透谷の長女堀越英子さん(七十五)の手で造化の碑の幕は除かれた。光明保育園の園児から野花がささげられて式は終わり透谷をしのぶ記念座談会が発起人の一人持田次郎宅で行われた」と報じている。参列者には鶴川村長、文学者として勝本清一郎・坂本浩・野田宇太郎諸氏の顔も見えた。この建碑は小田原のと同様苦渋に満ちたものであったが「幻は消えたり、新しい希望は生まれたり」で将来に大いに託するものであった。
 三年後の五月都立八王子図書館で「北村透谷を憶う会」が、多摩文化研究会主催、八王子図書館後援で催された。この会は橋本氏の熱意と図書館の援助によるもので、多摩地方での第二回目の講演会であった。講師は勝本清一郎氏に次ぐ透谷研究の史学者色川大吉氏で、「透谷と多摩」と題した講演は聴衆に大きな感銘を与えた。当日は透谷の作品の朗読と関係文献の展示もあり、参集者は森下の秋山申一氏を始めとして三十名を超える充実した会であった。
 昭和四十四年(一九六九)橋本氏は市内元本郷町善龍寺に渋沢文景氏を訪ねた折、この寺の先住職関文月師の卒業論文を示され、文月氏が北村透谷の研究をしたことを知った。昭和十年二十二才の時に書かれた論文である。昭和四十八年五月、色川大吉氏の「埋もれていた『北村透谷論』関文月の偉業にふれて」の論文とともに、文月師の「北村透谷論」を「ふだん記本三五」として刊行された。これは透谷を愛する橋本氏の企画であった。
 
  
まとめに
 
 昭和五十一年(一九七四)正月、NHKでは文化展望「文学碑のある風景」を放映した。
 立原道造と北村透谷の記念碑建立を取り上げたもので、透谷碑については紆余曲折した。「造化の碑」についての橋本氏の苦辛を鏤々解説したものであった。その時、併せて秋山国三郎顕彰会の活動も紹介した。これはNHKの西川勉氏の熱意により制作された。
 翌年の六月、幻境の碑は、秋山国三郎顕彰会の努力により透谷、国三郎ゆかりの地、森下の秋川街道筋に建立された。橋本義夫氏が幻境碑建立を企ててから実に四十四年後のことであった。碑には今も透谷フアンや文学愛好者が訪れ昔を偲んでいる。
 橋本氏の脳裏には「三日幻境」に載っている俳句「すず風や高尾もうでの朝まだち」の句碑を高尾駅前に建てたいという思いが馳せ巡っていたようであるが病の為念願果たせず昭和六十年八月他界したことは残念である。 

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